魂の入れ物のはなし。そして。

昨年、母の一番の友人が亡くなった。まだ60代。

ずっと小さくない病気を繰り返し、最後に会ったのは亡くなる約半年前。ガリガリに痩せてしまった腕を見て涙をこらえた。話をしていても息があがって苦しそうで、「また来るね」と言ってその方の家を後にした。それが最後だった。

私もその方とは仲良くさせていただいていて小さなころからたくさんお世話になってきた。だから、「遠慮せずに何でも言って。おつかいでもなんでもする。恩返しさせて」と何度も伝えた。そのたびに優しいその方は「ありがとうね。その気持ちだけでうれしいよ。私は何もしていないよ」と言った。

母と「今度会いに行くときは好きだと言っていたあのお店のアップルパイを持っていこうね」と話していた。母も体調が安定しないのでなかなか日にちを決められず過ごしていた。まさかそんなに体調が悪化しているなんて思いもよらなかった。

 

「入院したって。」

 

その後、退院はしたものの一人で過ごすことが危ないと判断されて、看護師さんのいる施設で生活することになっていたそうだ。そうして1ヶ月もしないうちに電話を切った母が私の肩に両手を置いて行った。

 

「亡くなったって。」

 

 

突然のことにぼんやりした頭のまま、しまい込んでいた喪服を出し、お通夜へ向かった。その方の大好きだった音楽が流れる空間。にっこり笑っているまだ痩せる前のその方の遺影を見ても現実味がなかった。

お顔を見せていただいて、最後に会ったときよりもまた一段と痩せてしまった姿に「これは本当にあの方なの?」と思った。母も実感がわかないようだった。

 

翌日の予定を中止して葬儀に出た。喪主の方の挨拶を聞きながら、母は肩を震わせて泣いていた。出棺を見送って私たちは帰路についたのだった。

 

眠っているお顔を拝見して、祖父母が亡くなった時を思い出した。その時も不思議な感覚だったのだ。息をしているときは間違いなく私の知っているまさに「その人」なのに、亡くなった途端その姿を見ても「その人」じゃないような気がする。私たちは日頃、顔や声でその人を認識し識別していると思っているがきっとそうではない。「その人」の魂こそが「その人」なのだ。私たちは気づかないうちに「その人」の魂を感じているのだ。体は魂の入れ物にすぎないのだ。

 

母は数年前にも友人を失くしている。私はその方にも大変お世話になった。その友人を失くした後、母は喪失感から心を病み、よく泣いていた。この方の時も母は「会いに行こう」と思いつつもなかなか思うようにいかず、その間にその方の体調が悪化し亡くなってしまった。

元々交友関係がせまい母。今日、私に「気軽に電話できる友達がいなくなった」とポツリと言った。人が亡くなった時、亡くなった瞬間より亡くなったことを改めて実感した時にぐっとくるものがある。ふと連絡を取ろうとした時、「ああ、もうこの電話はつながらないのだ」と。その人の家の前を通って「ああ、ここにはもう住んでいないのだな」と。

 

葬儀で両親と少し離れた席に座った私は、年を取った両親の後ろ姿を見て「長生きとはこうして大切な人を見送っていくことでもあるのだな」と考えたりしていた。なんてむごいんだろう。

私自身は30代で高校時代の友人を失くしている。死は遠い話ではないのだと感じた。誰にだって明日が来るという確約はない。私はこれから先、友人を見送ることになるのだろうか。見送られることになるのだろうか。私がこの世から旅立つ時、泣いてくれる人はそばにいるだろうか。